Aria

書きます

あなたはどうしてクイズをしているの?

どうして大会に出たいとあまり思えないのかについてきちんと考えをまとめたいと思っていたが、それより前に考えておく必要があるのは、そもそもどうしてわたしはクイズをしているのかということだ。自分がどうしてクイズをしているかがわからないのに、クイズのなかでしていたりしていなかったりすることがある理由がわかるはずもない。そのように考えるのは実際はそれほど妥当ではなく、生きる意味がわからなくても寝るときは布団を敷いたほうがいいとかそういうことはわかるのでなんとも言えないのだが、いずれにせよ、クイズについてはさまざまな行為がそれなりに堅牢な連合をもって存在していると考えられるのでそのように考えてもいいのではないかと思っている。それは基本的にはどうでもいい。

あなたがクイズをするのはなぜか、と問うときにそこで問われているのは何か、と思うとまたよくわからなくなってしまう。その問いはたとえば、あなたは何に喜びを感じてクイズをしていますか、とか、あなたがクイズを通じて得たいものは/失いたくないものはなんですか、とか、クイズがなくなったときにあなたの人生はどう変容しますか/どう変容していたと考えられますか、とか、そういった問いに変換することができるようで変換できず、何かに喜びを感じることはそれを選ぶことの理由ではありえないし、何かを通じて得られるものはそれ自体の目的ではないし、わたしにとって必要な要素と不必要な要素のすべてがその存在の有無によってわたしの人生を変容させる余地をもっている。どうしてこんなことをしたのか、という親が子どもを叱るときに発される問いは結局存在の弁明にまで行き着くしかない、ということは、たとえば『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』などをわざわざ持ち出してこなくてもわかるようなことであって、自分についてもわからないことを相手に問いかけても意味がなく、それは結局、自分にしか問うことができない。

あなたがクイズをしている意味を問うということは、あなたがクイズをしているということに意味があると、わたしが思っているということで、それはそれほど自明ではなく、あなたがクイズをすることはまったくの無意味であるということがありうる。そのほうが実感に近い。わたしはクイズによってほとんど何も得ていない。わたしはクイズによって多くのものを失った(その代償として、ということでなく)。わたしは意味のためにクイズをしているわけではない。わたしは無意味のためにクイズをしている、という言い方はレトリックにすぎない。レトリックという言葉を目にする機会はほとんどの場合、レトリックにすぎない、という否定の表現においてだが、その言葉に積極的な意味をあなたが与えるとき、あなたのしていることはまさしく、レトリックにすぎないという言葉に隠れているような否定の影をまとっているのではないかと、そのように怖れを感じることがある。これは私信ではない。

無意味によって得られるものはべつにまあそれなりにあるもので、無意味のなかに身を置いていたいと思うこともそれなりにあるものだ。クイズを意味づけることへの否定が、そのままもっと具体的な行為への否定につながってしまう危うさをもっているのに、大会に出ないのに大会を開くというのはおかしいのではないかと思うのは、それはそれでそんなに納得できないことかもしれない。つまり、クイズがコミュニケーションであるとわたしが定立するとき、わたしが否定しているものはコミュニケーション的ではないクイズなのかというとそんなことはべつになく、クイズがコミュニケーションであるというのは、わたしがこんにちはと言ってあなたがこんにちはと言ったり言わなかったりするという程度に不確かさを持っている類のことで、あなたはこの文章をたぶん読みやすいとは感じておらず、あなたは必死にわたしに話しかけているのだが、わたしにはそれがまったく聞こえないという様態でさえコミュニケーションだということなのだ。

つまりシステムのことだ。あなたは問いと答えのペアを用意しているから、それがコミュニケーションの用意になるというだけの話で、コミュニケーションのほとんどは虚しい断絶にすぎないということを認めないのはナイーヴにすぎ、だからクイズをしている人の多くにあなたが絶望するとしても、それは初めからクイズに埋め込まれた絶望なのだということになる。だからそれは結局、特段絶望に値するようなことではないということになるかもしれない。そもそも努力するとか練習するとかが苦手だ、という話をしてもいいが、それはそんなにクイズのこととは関係がなく、わたしが苦手なのはどちらかというと、努力をしたり練習をしたりすることで何かがある程度できるようになるという仕組みのほうで、その喜びのほうで、何もできないままただ踊っていたり喋っていたりするのがクイズだと、わたしは本当はそう思っていたいのかもしれない。そんなことはないのだけれど。

リハビリについて人に話したことがある。わたしは大学に合格するために努力した、努力してしまった、そのせいでなんだかいろいろなことを覚えてしまったし、いろいろなことがわかるようになってしまった、しかもそれは人と差をつけるということにはっきりと結びついていて、わたしはそれを初めから最後までずっと嫌っていたはずなのに、そのために努力したらなぜだか形が刃のようになっていてそれが気に入らなかった、だからわたしは摩耗するために、自分の意味づけされた知識の塊を無意味のなかに溶かしていくためにクイズをしたのだ、というような。理のある話だと、少なくとも実感のこもった話だとは思うけれど、それならどうしてあなたは、クイズで強くあるということに卑しい欲望を抱いているのだろう、とも思ってしまう。

あなたとの関係を守るためにわたしはクイズをしている、ということさえ方便にすぎない。あなたはそのうち、クイズを通じていようがいまいが橋を渡す必要はあったということに気づくのだし、わたしの前から去っていた多くの人と、あなたの前から去っていった多くの人がいたということに対して、クイズに何か意味をもたせようとするのはどんなにわずかなものでも矩を超えていて、あなたが人を大事にするということは、あなたが人を大事にするということで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。初めから結論は出ていた。クイズはわたしにとって長いあいだずっと、苦しくないコミュニケーションの方法だっただけで、わたしはそれ以外の話し方をもう多く知っており、だからクイズにはもうほとんど何も求めていないし、何も求められないのだということだ。あなたはもう船に乗ってベトナムを発っており、フランスへと帰りながら、おそらく愛していなかったわけではなかったのかもしれないと、そのように回想しながら、そのように回想することしかできない状況に押し込まれて、そしてまだそこにいるのだ。それで、そのような状況で、あなたはなぜ、まだクイズをしているのか、という問いこそが、本当の問いになるのだ。