クイズは問いと答えからなります。
これは当然のことです。問い、それは問題-文であったり、問題-画像であったり、あるいはもっと複雑だったり、これと指しにくいものであったりするかもしれませんが、少なくとも謎を、欠落を喚起させるもの。わたしたちがそれを聞いて、見て、感じて、悩んで、解釈して、理解して、信じるべきもの。ひとつの投げかけ。それが問いです。
そして答え。わたしたちが問いと格闘した末に導かれるべきものとして、あらかじめ用意するもの。そしてまた問いが目指すもの。問いの不在の中心。わたしたちがそれではないかと思いながら声に出し、書き、示すもの。わたしたちが提出する証拠物。何らかの説明、あるいは図像、身振りや仕草、音、そのすべてのためのひとつの言葉。それを答えといいます。
しかし、クイズは問いと答えだけからなるのではありません。
それは先ほどの文章にすでに現れています。クイズをするのはわたしたちです。問いを発見し、問いを発し、問いに直面し、問いに逡巡するのはわたしたちです。答えを求め、定め、探り、決断するのはわたしたちです。だからわたしたちの行為そのものがクイズの一部なのです。
問いはわたしたちなしにはあり得ず、答えはわたしたちなしにはあり得ず、そして、問いと答えを結びつけるのもまた、わたしたちなのですから、クイズはわたしたちなしにはあり得ません。わたしたちは種々の行為によってクイズを成り立たせており、その一部にもなっています。
この基本的な条件にもとづいて、クイズについて考えるためのいくつかのレベルを考えることができます。わたしが考えたいのは、「面白いクイズ」とは、あるいは「クイズが面白い」とはどういうことか、ということです。このことを先ほどの条件にもとづいて考えると、だいたい次のようなことを区別する必要があることがわかります。
1.「面白い問い」は「面白いクイズ」だろうか?
2.「面白い答え」は「面白いクイズ」だろうか?
3.「問うことが面白い」ということは「クイズが面白い」ということだろうか?
4.「答えることが面白い」ということは「クイズが面白い」ということだろうか?
この4つの問いに対する答えは、どれもイエスであり、ノーではないかと思います。「面白いクイズ」/「クイズが面白い」の条件は、この4つをすべて満たしていることではなく、すべて満たしていないことでもたぶんなく、一部を満たしていて一部を満たしていないことではあるかもしれません。というのも、この4つの問いは、それぞれがまったく別のものを生み出すように思われるのです。
わたしたちがクイズをしている(この表現をどうか可能なかぎり広くとらえてもらいたいのですが)ときに思わず発する「面白い」という言葉は、この4つの問いのどれともっともよく結びつくのか(それとも、すべてと等しく結びつくのか)。わたしたちはいったい、何が面白くてクイズをしているのか。
わたしはそのことをいつも考えながら、4つの問いに対するわたしなりの答えと、他の人の4つの問いに対する答えのあいだに存在する可能性のある絶望的な懸隔のことを思って不安になります(その不安がわたしにこの文章を書かせています)。わたしはある人が、クイズを出している人のことをまったくどうでもいいと思いながらクイズを面白く思っているさまを想像します。またある人が、世界/社会のことをほとんどまったくどうでもいいと思いながらクイズを面白く思っているさまを想像します。またある人が、過去とまったく同じ問いを際限なく反復しながらクイズを面白く思っているさまを想像します。またある人が、クイズに対してまったく沈黙をつらぬきながら、クイズを面白く思っているさまを想像します。どれも簡単に想像できることで、わたしはそのどれでもないと思いながら、わたしはそのどれでもあるようにも思います。
わたしが「面白いクイズ」/「クイズが面白い」について考える必要があると思うのは、わたしたちがクイズをしているから、クイズをしているのがわたしたちだからです。もっと正確に言うと、わたしはつねに「わたしたち」としてクイズをしているからです。わたしだけがいるということでは当然なく、わたしがいてあなたがいるということだけでもなく、わたしたちがいてクイズをしている。この「わたしたち」という複数は疑わしいものですが、わたしはしかし、クイズをするときにはわたしたちでしかあり得ない、だからわたしたちという人称のもとに語るべきことがある。わたしたちがクイズをしているときに思わず発する「面白い」という言葉は、ただわたしが発するという以上の意味で成立しているはずで、だからそこには何かを考える余地があるのではないかと思っているのです。
「それは面白い」という記述は、「わたしはそれを面白いと思う」という記述にすぐに横滑りしてしまいます。でも、面白いということと、何かを面白いと思うこととはぜんぜん別であるということもあるのではないかとも思います。「それは面白い、しかしわたしはそれを面白いと思わない」という文にも、「わたしはそれを面白いと思う、しかしそれは面白くない」という文にも意味を認めることができたときに、はじめて、面白いクイズとは何か、クイズが面白いとはどういうことかということを改めて問うことができるようになるのだと思うのです。
今回はこのあたりで。